(2003年3月)


  
 
先日、埼玉県川口市で数十年ぶりに、竹馬の友と再会しました。その際、彼との間に大変興味深い会話がありました。

友人「今度、セイジンシキに出席するんだ」私「成人式?もう三十年も前のことだろ」

友人「そうじゃないんだ。川口では、盛人とは五〇歳の成熟した盛んなる人をさし、五〇代の人とその家族を集めて、盛人式を十一月に開催しているんだ。論文も募集しているので、応募したよ」

 どうやら川口市独自の取り組みのようです。

 ところで、五〇歳と言えば、論語の一節が思い出されます。「五十而知天命」。論語では五〇代は、「天命、知命の歳と言われていて、これは天が己に与えた使命を悟る年代」とのこと。しかし、私のような小人には「てんめい」を悟るのは、とうてい及びも付かぬ話。江戸っ子の勝海舟なら、ひょっとするとこんな風に読み下したかもしれない、と私などは一人で悦に入っている始末。それは、「五〇にもなったら、いい加減・てめい・を知れ」。そう、自分自身を知っても良いのが、五〇代かもしれません。

 ある時、大学一年生の息子とカラオケをしていて、初めてある曲を最初から最後まで聴きました。スマップの「世界に一つだけの花」です。二〇〇万枚も売れたこのヒット曲を、先日初めて聴いたという浮世離れした自分に驚くと共に、たかだか一八歳の息子が悟ったように、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」などと歌っている様子に、いささか奇異な感じを持ちました。

 一人一人が個性を持った一つだけの花であることに、もちろん異論はありません。しかし、自分自身が五〇歳になってみて思うのは、個性とは、きちんとした基礎の上に花咲くのであって、まだ基礎の基の字も学んでいない息子が、悟ったように口にするようなものではない、ということです。それは、悪戦苦闘、七転八倒の末に獲得するものなのです。

 成人式から三〇年。それぞれがかけがえのない人生を送り、己自身をようやく知った五〇代の人々こそ、社会人として身に付けた基礎の上に、それぞれが研いてきた個性を、今こそ花咲かせる時ではないでしょうか。

 世界に一つだけの花は、成人式ではなく盛人式でこそ歌われる歌だと、私は思うのです。