2014年01月30日(木曜日:曇りのち雨)父の告別式


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■誰もいない部屋で父の遺影と対面し棺の中の父の顔を見た途端、嗚咽に襲われました。自分でも意外でした。人はいずれは旅立たなければなりません。友人達の葬儀に何度も出席し、頭では理解しているものの、やはり父の旅立ちだけは別のようです。

 暖かな父でした。一度だけ小さい時に叱られた記憶がありますが、あとは優しい眼差しで見守ってくれていた、という思い出しか私にはありません。親孝行とは、決して言えない息子でしたが、それでも会う度に心配して言葉を掛けてくれました。自分が親になってみると、子ども達のことが心配でならないことが、よく分かります。それでも、自分が代わってやるわけにはいきませんから、見守ってやるしか親にできることは無いのです。忍耐強い父でした。

 京都で生まれ母と結婚してからは、母の父が経営していた野球ボール製造会社に勤めていました。その会社は戦後の一時期までは、今の大手スポーツ用具メーカーのミズノとシェアを争うほどの勢いだったそうです。戦後始めて京都で高校野球の試合が開催された時、進駐軍の幹部が始球式に訪れたそうですが、その時使用されたのが祖父の会社の製品だった、と母から何度も子どもの頃聞かされました。

■その後、何が起こったのかは知らないのですが、経営に行き詰まってしまい、父は仕事を求めてツテを頼って東京に出て来ました。先ずは巣鴨に住み始め、程なくして公団住宅の抽選に当選。埼玉県川口市に移住しました。私の記憶が辿れるのは、この川口時代からです。母の記憶も今となっては曖昧なのですが、私が四歳の頃のようです。昭和 32 年頃でしょうか。

 告別式で甥から聞いた話に、しんみりしました。甥っ子が学校で使っていた野球ボールの縫い目がほつれてしまい使い物にならなくなった時に、父に直してもらったそうです。昔とった杵柄。素人目には神業のように祖父はそのボールを修繕したそうです。甥っ子は、そのボールを学校へ自慢気に持っていったそうですが、何だか宿題の絵を親に書いてもらったような、そんな気恥ずかしさもあったそうです。そんな逸話があったとは知りませんでした。

 この話を聞いて思い出したのが、映画「天国と地獄」の中で観たシーン。主人公の靴屋の重役が、犯人特定の手掛かりとなる薬剤を身代金を入れるバックに隠しこむ際に、「昔は靴屋はバックも作らされたものですよ。今になって、そんな技術が役に立つとは思わなかった。」と、述懐する場面です。父の思いは、どんなだったでしょうか。

 こうして東京でスポーツ用具、主にゴルフ製品を販売する小さな会社に父は勤め始めました。きっと有能な営業マンだったのでしょう。何も分からない子供心にも、そう感じていました。時は日本の高度成長時代。よい時代だったに違いありません。専業主婦の母も、子ども達が大きくなって教育費に金がかかるようになってからは内職をしていましたが、子どもたちは何不自由なく成長する事が出来ました。

 当時の団地住まいは快適そのものでした。先ずトイレが水洗でした。学校のトイレが水洗トイレになるのは、まだまだずっと先の話です。お風呂も毎日入る事が出来ました。今では当たり前の、こんな事も学校で友人達と話していると、自分の家が恵まれている事にビックリしたものです。

 現在の川口市は、吉永小百合さんの「キューポラのある街」で描かれた街とは、すっかり様変わりしてしまいました。ネットによれば、映画は

 1962年(昭和37年)4月8日に公開された浦山桐郎監督の日本映画である。上映時間は99分。


 と、あります。私が 8 歳の時です。吉永小百合さん演じる主人公ジュンは成績優秀で浦和第一女子高校を目指しますから、当時中学3年生で私とは 7 歳違いということになります。ジュンの父親は鋳物職人でしたが、私が住んでいた団地の西側の道路を隔てた向こうに鋳物工場があり、従業員向けの落語に出てくるような長屋が立ち並んでいました。そこへ遊びに行き、仲間達とベーゴマで遊んだものです。長屋の玄関前を流れる細い排水溝を悪臭を放つ汚水が流れていたのを覚えています。

 市のホームページを見ると、平成 25 年の人口が 58 万人強とありますから大都会です。残念ながら映画の公開された昭和 37 年当時の人口は記載がありませんが、当時の様子は、あの映画にあるとおりでした。

 当時私が通っていたのが、川口市立飯塚小学校。木造校舎でした。今でも校歌を覚えているから不思議です。高校の同期会に行き、最後に浦和高校の校歌を歌うのですが、残念ながら一番すら最後まで歌えないのと比較すると、実に奇妙です。父と私は、ちょうど 30 歳違いですから、7 歳から 12 歳までの期間、父は 37 歳から 42 歳と、まさに男盛りだったことになります。一生懸命に働いていたのでしょう。こちらは一生懸命に遊んでいました。

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 缶蹴りをしていて日が暮れてしまい、夕飯に遅れて母に怒られたのを良く覚えています。近くの池でザリガニを採って遊んだのは楽しい思い出です。

 勤務していた会社は、当時新宿に移転、改築したようで、父に連れられて行った事も良い思い出です。ずいぶんと大きく広い会社だ、という印象でしたが、子どもから見れば、そう見えたのでしょう。後に父から聞いた話では、その会社も今は消滅したようです。継承に失敗したのか、時代の流れに乗り損なったのか、どちらにしても事業の継承は本当に大変なことです。

 仕事の関係もあって、父はゴルフが好きでした。川口には荒川の河川敷に、浮間ゴルフクラブというゴルフ場があって、父に連れられて何回か回ったことがありました。何度か打たしてもらったこともあります。そういう意味では、私のゴルフ歴は超長いのですが、上手くならないのは、どうしてでしょうか?

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 兄と義兄と父と四人でラウンドした事も大切な思い出です。私自身は、2005 年に新沼津カントリークラブのメンバーに加えてもらいましたが、父の時代に倶楽部のメンバーになるということは、お金も掛かりますし大変名誉な事でしたから、一緒にメンバコースでプレイしてあげることが出来たら、父はどれほど喜んだことだろう、と後悔したのです。が、考えてみると、2005 年には父は 80 歳を超えていましたから、現実的には無理だったかもしれません。











■川口市立西中学校に通いましたが、軟式テニス部で活動しました。ランニングは、いつも荒川の土手伝いでしたが、映画「キューポラのある街」では、主人公のジュンが自転車に乗って通学したのが、その荒川の土手だったのです。当時同じクラブに所属していたのが親友の孝平ちゃんです。淡きこと水の如し、と言われる付き合いを未だに続けていますから、馬があったのでしょう。彼は私よりずっと真面目な人間でしたが。

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 彼の家にお邪魔して、ご両親に会った事も良く覚えています。心優しく誠実な人柄だ、ということは子ども心にも印象として残っています。ただし孝平ちゃんは、私よりもずっと早くにご両親を無くされたと記憶しています。辛かったでしょうね。いまになると、私にも想像がつきます。

 中学時代、先ほどの浮間ゴルフクラブで、関東オープンゴルフ(?)が開催され、父と一緒に観戦に行ったことを覚えています。優勝したのは、陳清波プロ。最終ホールでしたか、バンカーからの第二打を見事にオンして、優勝したように記憶しています。もう半世紀近く前の出来事です。こんな、一見どうでも良いことを、なぜ記憶しているのか、自分でも不思議です。