1999-2000年度

 今から9年前。2000年7月からは沼津西ロータリークラブの会長を務めることになっていました。クラブは創立10周年。肩の荷の重かったこと。10周年を記念して、それまでの印刷されていただけの週報をデジタル化してCD-ROMに収録しようとクラブの仲間と一緒に精を出しました。

 趣旨を理解し、文字通り手弁当で協力してくれたクラブの仲間に感謝、感謝です。クラブ幹事として会長の私を支えてくれた櫻井隆志さん、そして10周年記念実行委員長として陰に陽に未熟な会長を指導してくださった植松秋彦さんには感謝の言葉もありません。

 クラブ会長として出だしの半年は右往左往の毎日。2000年の年末には、20世紀最後の例会ということで、みなさんで記念写真を撮りました。

 21世紀がどんな世紀になるのか、興味津々でした。ソ連が崩壊し、「歴史の終わり」が出版され、これからは平和な時代がやってくると誰もが想像したものの、やってきたのは局所紛争の嵐でした。

 当時子ども達は、17歳、15歳、13歳とそれぞれが少しずつ大人に向かって成長していました。今思うと忙しない中にも家族で一緒になって楽しい期間でした。

 20世紀から21世紀への転換点。自分としては充実していた時期でした。

(2009年1月)

ホームページ掲載時コメント(1999年)

 1999年は、ここ原の地で、あいあい眼科クリニックを開設して、丸10年目の年です。昨年からは、沼津医師会の情報担当理事にもなりました。今年は会員間のコミュニケーションを促進するための情報網を、何とかして作りたいと考えています。もう一度初心に帰って、地域のために何ができるかを考えて行きたいと思っています。

 子ども達との電子メイルのやり取りは3年目に入りました。長女の希実はいっこうに書く気配は無く、次女の彩香は本当にたまにしぶしぶ書く程度。長男の拓磨だけが、几帳面に必ず返事を書いてくれます。少し前からは、毎日クイズを出しています。最近は漢字に関する本から出題しています。例えば、印鑑を押すかな、それとも印鑑を捺す、どちらが正しい?、という具合です。返事には回答とともに、拓磨の考えた問題がしばしば書かれています。Jリーグが開幕してから、ジュビロ磐田のあげた総得点は次のどれかな?、という具合。スポーツが好きなのです。二人の娘がいつ返事を書くようになってくれるか、今は忍耐の時と諦めずに書き続けています。

 1月に書いた「21世紀への道」は、なんとか今の状況を打開するには何が必要かを自分なりに考えたつもりです。もちろん私は経済学が専門ではありませんから、正しい処方箋を書けるはずもありません。しかし、これからの時代、大切なのは一人一人が何をしたら良いかを、自分の問題として考えて行くことではないでしょうか。国が何とかしてくれる、御上が面倒を見てくれる、と国民が考え続ける限り、この国の未来は暗いままです。

 インターネットのおかげで一人一人の市民の発言力は飛躍的に増大しました。アイデアとやる気があれば、いくらでも素晴らしいビジネスが成立する可能性があるのです。

 折しも本州と四国の間の橋が、3本とも完成しました。もちろん地元にとって大きな力となるでしょう。しかし新幹線にしてもそうですが、住民たちの現在の要望を叶え続けようとすれば、いずれ各家庭の玄関先まで新幹線の駅を作り続けなければならないことになります。そんなことができないことは誰もが気付いていながら、いわばゴネ得とばかり、もらえるものは要求しておけ、となります。そんな金があるなら、各学校と家庭に光ファイバーを引いて、インターネットを適正な料金でいつでも自由に利用できる環境を作ることの方が先決なのです。少なくともインターネット接続に関しては電話料金の定額性を導入し、デジタル情報の流れを一刻も早く開放しないと、日本はアメリカに遅れるばかりです。

 後から振り返れば、1999年は経済的にも最悪の年だった、ということになるでしょう。しかし100年後に振り返ってみれば、自立した新しいタイプの日本人が出現した年と位置付けられる可能性が大きいのです。それはひょっとすると明治維新で福沢諭吉が目指したものかも知れませんが、今までとは違った日本の生まれた出発点であったと、1999年が回顧されることを祈っています。

ホームページ掲載時コメント(2000年)

 いわゆるコンピューターの2000年問題で、年末年始は大変でした。

 スルガ銀行の増田清和さんの御苦労も大変だったようです。結局2,000年問題は、大山鳴動してネズミ1匹、つまり思ったほど大きな混乱はありませんでした。政府の指導もあり、人々は備蓄用の食料など結構買い込んでいたようです。幸い、増田清和さんのような方の大変なご努力で、大きな混乱はなく年末年始を迎えることができました。

 クルーズアップ現代に増田清和さんが登場したのも、ちょうどそのころでした。テニスの練習会の時に前もって増田さんからテレビに出演することを聞いていたので、澄代と一緒にテレビの前でいつ増田清和さんがテレビに登場するか楽しみにしていました。NHKテレビのクローズアップ現代という多くの人が見ている番組で、登場するのは大変なことです。30分の番組の、本当に最後の1分ほどでしたでしょうか、増田清和さんの顔が大きくクローズアップされました。その時澄代と一緒に大きな拍手をしました。それはスルガ銀行の会議の模様を移した様子でした。みんな本当に真剣な顔をしていました。増田清和さんのあれほど真剣な顔を見たのは本当に初めてでした。テニスをしているとき、そしてその後の楽しい飲み会の時の増田清和さんの顔とは大違いでした。

 増田さんはこれでテレビに登場するのは、「のど自慢」以来2度目のことだそうです。

 3月の駿府マラソンも今年で5回目。2月に同じ東沖に住む鈴木泰次さんが沼津西ロータリークラブに入会してくれました。有志が集まって歓迎会を寿司吉でしたのですが、どうもその前から風邪気味でした。無理をしたのがいけませんでした。さすがに体調が悪いので、澄代の代わりに5キロメートルを走りましたが、その後が大変でした。

 自分で勝手に、風邪だろうと判断し、ユナシンやロキソニンを飲んでいたのですが、どうもよくなりません。そこで別宮啓之先生に診察してもらったところ、なんと肺炎になっているとのこと。それから3日間は絶対安静でした。肺炎になったのは中学校以来でした。咳が止まらない上に、発熱はとてもつらいものでした。それでも手術の予定が入っていたので、インダシンの座薬を入れて解熱したうえで何とか手術もこなしました。

 こうして、病気になってみると改めて家族や妻のありがたさが本当に身にしみました。人間は結局支え合って生きていくしかないのですね。

 12月に投稿した「黙祷」は、家族5人で書き上げたものです。澄代がきちんと記録しておいたら、と言ってくれましたので、一応書き上げましたが、その後子どもたちと澄代が一緒になって、添削をしたようです。お許しが出てから投稿しました。

 子どもたちの勇気と優しさに、ちょっぴり感動した事件でした。

1999年度



2000年度